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「初代仙台市長から曽祖父あての手紙」(宮城県医師会報 2008年5月号)

平成18年10月我が家の本家である名取市高柳・丹野家の土蔵の押入れの奥から明治時代の書簡類が発見された。書簡類の解読は懇意にしているつくば市の島崎氏に依頼した。書簡類は明治20年代から明治末までの手紙やはがき類約40通ほどで、曽祖父・甚助(写真1)の弟で明治37年~38年の日露戦争に出征した清吉の軍事郵便関連のものが主なものであった。曽祖父・甚助は名取町に合併する前の東多賀村の村長をした人で、初代県会議長・増田繁幸の頌徳碑建立発起人の一人にもなっている。その関係からか、初代の仙台市長である遠藤庸治氏(写真2)からの手紙も一通混じっていた(写真3)。衆議院補欠選挙に出馬することを知らせる、毛筆で認められた手紙である。「宮城県姓氏家系大辞典」および「仙台人名大辞書」によると、遠藤氏は、嘉永2(1849)年仙台に生まれ、仙台藩校養賢堂に学び戊辰戦争に参加、代言人(弁護士)、県会議員、県会議長を務め、明治22年初代仙台市長に推され13年間その職にあり、電力市営などの五大事業を提唱、宮城郡や伊具郡に植林、養蚕、養豚を提唱、製紙の原料三角楊の移植を勧め、宮城県農工銀行頭取、衆議院議員も務めた。インターネットで見ると、榴ヶ岡に植樹した桜が平安神宮に奉納され、「遠藤桜」として今でも愛でられているらしい。大正7年70歳で没し、墓所は仙台・新寺小路・善導寺にある(後日、善導寺に行って訊くと、墓は葛岡に移転し、東京にいる子孫の娘さんが墓参に来るとのこと)。

写真1:椙原品墓
写真1:丹野甚助(曽祖父)
写真2:仏眼寺
写真2:遠藤庸治・初代仙台市長

以下に解読したものを提示する。

「拝啓時下益々御清勝之段奉賀候陳ハ來五月八日ヲ以テ擧行セラルベキ衆議院議員補欠選挙ニ付有志諸君よ里又々候補者タルノ勧告を受ケ候故不肖ヲ省ミズ候補者タル事ヲ承諾致候然ニ時日甚タ切迫致居候事故一般有権者諸君ヘハ書面ヲ以テ御賛成ヲ請フニ止メ一々各地方有志諸君ノ御助力ニ依り勝敗ヲ争フノ外無之候間微意御諒察御賛同之栄を賜り度幸ニ當選乃上光輝アル軍國議会ノ討議ニ参與スル事ヲ得ハ小生之栄譽トシテ特ニ感佩スル處ニ御座候怱々敬具

明治丗八年四月廿八日
遠藤庸治

丹野甚助様

郷土史年表によると、遠藤氏は明治36年に行われた第8回衆議院議員総選挙に当選している。因みにその時の同時当選者には、藤沢幾之輔、鎌田三之助、南条文五郎、高野猛矩、 村松亀一郎、菅原 伝がいる。ところが、明治38年の衆議院補欠選挙に関しては、宮城県郷土史年表にも河出書房新社発行の「日本史年表」にも記載がない。県立図書館や宮城県公文書館でも調べたが記録なく、仙台市博物館でもなかった。昭和28年版の「仙台市史7 別編5」の「遠藤庸治」の項には、明治36年と39年に衆議院議員になったと記載されている。明治37年に行われた第9回衆議院議員総選挙には立候補しなかったのか落選したのか当選者の中には名前がないので、39年の衆議院議員というのは38年の補欠で選出された結果ということが十分考えられる。この年は1月旅順要塞を陥落させ、3月奉天大会戦に勝利、5月日本海海戦で東郷平八郎率いる連合艦隊がロシア・バルチック艦隊を撃破、日本勝利を決定的にしたときであり、遠藤氏もこの手紙で軍国議会に参与することの栄誉に言及している。市博物館職員の勧めに従って県立図書館に再び行き、新聞コーナーで明治38年4月から5月の「東北新聞」、「河北新報」のマイクロフィルムを調べた結果、衆議院議員補欠選挙のことが詳細に報道されていた。遠藤庸治氏は政友会の分裂で立候補、中立派・高野孟矩、進憲党・星松三郎と三つ巴の闘いで、名取・宮城郡の趨勢が鍵になっていたようであったが、結局登米・栗原郡を地盤とする星氏が当選、遠藤氏は次点であった。それゆえ先ほどの推定は誤りだったことになるが、後日市博物館でこの点を尋ねると、「宮城県議会史」で翌39年4月星松三郎氏が脳溢血で亡くなり遠藤氏が繰り上げ当選となったことが判明した。両紙に遠藤氏が各選挙区の知友に送った書簡の文が掲載されている。ほぼ同一内容であるが、文は微妙に異なっている。遠藤氏が相手によって表現を少々変えたためで、ニュースソースの違いを反映しているものと考えられる。


写真3

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