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「増田繁幸のことなど」(仙台市医師会報 2007年1月号)

明けましておめでとうございます。還暦の年を迎え、心改まる気持ちでおります。同期会も還暦を祝う会として、昨年10月は高校のがあって、来る2月は中学の会が同じ秋保温泉で泊りがけで行われる予定です。開業して5年経過、体を動かす機会が少ないことを懸念して、昨年からは毎週月曜日、勝山ボウルでトリオリーグに参加、92歳の内山先生と労災病院の長崎先生とチームを組んで、下手ながら毎回3ゲームの対抗戦を続けております。以前から太極拳も続けているのですが、最近はマンネリになってか休むことが多くなりました。新たに習っている42式や32式剣、そして最近の揚式太極扇など、なかなか覚えられなくて四苦八苦しております。毎年10月から2月までは宮城大看護学科で「東洋医学」の非常勤講師をしています。また、統合医療研究会を組織して、年に3回ほどホメオパシーやアントロポゾフィー、バッチフラワーレメディー、マクロビオティックなどの講演会を開き、世界の伝統・代替医療を勉強しております。

さて、1昨年父が85歳で亡くなって1600坪ほどの土地が残されました。東部道路名取インターの近くに位置しますが、その昔宮城県会議の初代議長であった増田繁幸の屋敷があったところです。この地は周りよりやや高くなっていて、昔台風で名取川が氾濫したときも水没しませんでした。増田繁幸は文政9(1826)年仙台藩執政増田繁育の三男として生まれ、文武に優れ、剣は北辰一刀流、軍学は北条・長沼二流を学び、青年時代の10年間は諸国を漂白し、勤皇の志士と交わり、病を得て帰郷の後、明治4年仙台藩大参事、一関県参事、磐井県令を歴任、名取郡高柳村に居を定め、閖上―増田間に新道を開設し地方振興に尽力、第七十七国立銀行の創立に参画し、明治12年から23年まで初代県会議長を勤め、のち衆議院議員、貴族院議員となり、明治29年71歳で没し、仙台・孝勝寺に葬られております。辞世は「うつせ身の我世に同じ今朝の霜夕を待たて消んと思へは」、戒名は「高柳院殿陶令日忠居士」、昭和10年その功績を顕彰して地元多賀神社境内に立派な頌徳碑が建てられています。実に清廉潔白の人で、その地位で財もなせたであろうに、死後に三万円の借財を残し、家具類や住居の一部を売却してその返済に充てたとのことです。高柳村に隠遁していた頃には農事試験を試み、養蚕、馬・鵞鳥の飼育、茶・葡萄・梨の栽培、焼土肥料、害虫駆除、馬耕などの農業改良に努め、また、現代に十分通用する共済福祉互助制度である「高柳村民契約会」なるものを創設しております。

ところで、1昨年、泉区北中山から青葉区八幡に居を移しました。この地は以前江戸町といい、仙台城下建設のため江戸から来た大工や石工たちが住んだ町です。家の北側に水路があり、その昔伊達藩が築いた「四ツ谷用水」で、郷六の広瀬川を水源として東仙台の梅田川に連なり、街中を縦横に流れて、住民の重要な生活用水となったものです。

昨年10月、いつものように丹野家本家に月1回の往診に行くと、押入れの奥から見つけたという明治時代の書簡類を見せられました。明治20年代から明治末までの手紙やはがき類約40通ほどです。明治37から38年の日露戦争に出征した曽祖父・甚助の弟清吉氏のものが主なもので、第一軍野戦近衛歩兵第一聯隊第三中隊第二小隊四分隊に所属していたようです。曽祖父は名取町に合併する前の東多賀村の村長をした人で、増田繁幸の頌徳碑建立発起人の一人になっています。増田家が高柳を離れる際にその土地を買い入れ、のちに父に与えたのが曽祖父です。書簡類の解読を懇意にしているつくば市の島崎氏に依頼しています。何か歴史的資料として面白いものがあればと思っています。また、残された増田繁幸ゆかりの土地を、今ある庭を取り入れる形で、介護関連の施設にでも利用できればという夢を抱いております。

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