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「泉区から青葉区へ」 (「あおば」 2003年12月号)

平成13年4月、筑波技術短期大学附属診療所長を辞して泉区北中山に「東西クリニック仙台」なる診療所を開設、その意とするところは東洋医学と西洋医学との統合医療と言うことである。平成14年11月青葉区南吉成の6つの診療科が集合するタウンプラザ内メディカルスクエアに移転、当初、医療廃棄物の出し方や市の基本健診、医師会主催学術講演会などで、泉区と青葉区のやり方に色々違いがあって当惑した。近くには石田名香雄元学長が社長をしていたICRがあり、その中に細胞培養や培地などを扱っている(株)細胞科学研究所が入っている。その社長の佐藤威さんは、自分の学位研究であるヒトリンパ球無血清培養の培地を開発した1人で、現在、宮城県立がんセンターの海老名卓三郎先生が開発した免疫細胞治療、BAK療法で大変お世話になっている。その海老名先生も実は、医学部学生時代の細菌学実習でのオーベンの1人であった縁がある。石田先生はごく近くに住んでおられて、ときどき診察に来院される。

さて、北中山は青葉区と隣接していて結構青葉区の患者さんも多く、泉区時代に青葉区国見の斎藤さんに出会い、その家に伝わる「法華塔」の銘文について解読を頼まれる機会を得た。その間の事情は、県医師会報2002年7月号と2003年8月号に報告している。その流れで現在、支倉常長のお墓と言われているものの探訪を試みている。青葉区青葉町の光明寺、川崎町支倉の円福寺、大郷町東成田の西光寺の3つはよく知られているものである。光明寺と円福寺では帰国して2年後の52歳で死んだことになっているが、大郷の西光寺では密かに生き延び84歳で死亡したとしている。今年出版された五野井隆史著の「支倉常長」(吉川弘文館)では、大和町吉岡字西風(ならい)にある五輪塔も常長の墓であるという伝承があるという。もうひとつ、川崎町本砂金(もといさご)の常正寺跡にもあるという郷土史家がいる。以上、支倉常長の墓と言われているものが5つあることになる。いずれも常長のものとする直接証拠はなく、状況証拠で比定されているに過ぎない。

現在、クリニックへは北中山から中山台を抜け、芋沢の東北道沿いの山道を通って通勤している。10分ほどの距離である。棚田があって、まわりはいま紅葉が盛りとなっている。梅雨時の頃水路に男性の死体が発見された。担当した警察関係の患者さんによると、同性愛者同士の喧嘩の果てという。このような物騒なものはご免蒙りたい。通りすがりの農家の畑には、春は水仙、チューリップ、夏は百合、秋は菊、コスモス、クロッカスなど、季節季節の花が絶えず咲き続けていて目を楽しませて貰っている。先日、旧宮城町の医師親睦会である「愛子会」が開催され、参加した。今後とも御指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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