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横澤将監と斎藤家の法華塔(宮城県医師会報 2002年7月号)

昨年は伊達政宗による仙台開府400年目、また今年はサッカーW杯優勝候補の一つイタリアチーム がキャンプしていてイタリアブームが沸き起こっている咋今、政宗の一大事業であった慶長遣欧使節の 支倉常長のことはよく知られている。しかし、彼の帰国に際しサン・ファン・バウティスタ号でノビス パニア(メキシコ)のアカプルコまで彼を迎えに行った人物、仙台藩士横澤将監吉久について知るもの は少ないであろうと思われる。私も患者さんからその家に伝わる「法華塔」(写真1)の銘文 の解読を依頼されるまで全然知らなかった。その患者さんは斎藤さんといい、国見に古くから住んでい る名家である。銘文の拓本(写真2)写しのうち「横澤伊兵衛行完系傳」中に横澤将監の名が あり、早速手持ちの「仙台人名大辞書」と「宮城県姓氏家系大辞典」で調べるとすぐ「横澤将監」のこ と、そして斎藤家との関係がわかった。両者から引用すると、「横澤将監」:生没年不詳。切支丹宗徒 。諱は吉久、聖名はトン・アロンソ・ハシャルト、宮城郡実沢村(仙台市)に居住。後藤荘兵衛(寿庵 )とともにローマ法王に迫害の状況を報告した信徒代表者16名中の1人、元和2(1616)年、支 倉常長をメキシコに迎えに行き、途次マニラで洗礼を受け、総督よりハシャルトの名を受けた。同6年 帰国。のち棄教し迫害を免れた。後藤寿庵の水利工事に理解を示し農民を説いて将監堤といわれる大溜 池を作った。寿案が南部に逃亡後はその跡を引き受けて、その領土三分の地を預かり年貢を取り立てた 。

横澤家は、国分氏14世宗政(宗綱)の次子弥三郎である将監を祖とし、分家して横澤を名乗り、国 分実沢村に居住、平士、511石取り、将監の嫡子左平治に子がなく病死、将監娘婿古内義重の養女と なった将監姪婿舟山善左衛門の娘の婿幸島(桑島)十次郎(小田原城主稲葉美濃守の家臣)が継いで横 澤伝左衛門庸範と称し、そのあと伊兵衛行完ー伝左衛門行長ー伊兵衛行寛(古内義行次男)ー伊八郎行 為(行篤、古内義清次男)ー音人行倫(橋本辰季次男)ー英記行高と継いだ。田地、宮城郡高城手樽村 。

横沢家と斎藤家の関係は、伊兵衛行完の弟吉三郎行業が斎藤家を継いだことに始まる。その斎藤家は 、藤原姓で、斎藤和泉守を祖とし、天正14年政宗の代に仕え、その跡を赤間半助が継いで不段組とな ったが慶長5年江戸で客死、その子重定は斎藤姓に復姓し、不断組に召し出されたのち平士に進んだ、 その跡は阿部常行の次男が継いで経定と称し、伊達忠宗、綱宗、綱村の三代に仕え、致仕ののち安休と 号した。本人に男子なく横澤田左右衛門三男吉三郎が跡を継ぎ、そのあと定盈(阿久津左重次男)-定 行ー(浜田重常次男)-静定(橋本善季三男)-亮定ー定保ー一精ー一定と継ぎ、明治4年に一精が名 取郡前田村に住したという記録がある。

この前田の斎藤家と国見の斎藤家との関係であるが、国見の斎藤家の遡った除籍謄本では、当主が斎 藤興四郎で、長町・郡山の渡辺林吉の次男喜蔵が養子となり、荒巻の早坂権兵衛の長女しをと婚姻、長 男力治が明治4年、次男熊治が明治14年生まれ、となっている。それ以前の系図や過去帳はないとの ことで、直接関係を示す証拠は今のところ入手できていない。人里離れた国見の山で密かにイエスを信 仰していたのであろうか。

尚、法華塔の銘文を書いた人は、性空といい、伊達騒動で有名な烈士伊藤七十郎の甥の子で、松島瑞 巌寺中興の第7世となった名僧である。正徳四甲午(1714年)の紀年銘がある。

銘文解読や法華塔の歴史的意義について、東北大の平川 新教授にお訊きしたところ、仙台市博物館 に見て貰った方がいいとのことで、過日、銘文拓本写しのコピーや写真を持参して、市史編纂室主事の 菅野正道さんに依頼した。その検討の結果が楽しみである。

写真1:法華塔
写真1:法華塔
写真2:法華塔拓本
写真2:法華塔拓本

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