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「白鳥大明神の祝詞」その2(宮城県医師会報 2002年3月号)

本会報昨年8月号で言及した「祝詞」について、その後分かったことを述べたい。

宮城学院大学日本文学部の犬飼公之教授より、近世史専攻で、白鳥神社や白鳥伝説に詳しい東北大学 文学部東北アジア研究センターの平川 新教授の著書「伝説のなかの神ー天皇と異端の近世史」(吉川 弘文館、1993年)を紹介された。本書では、伝説や伝承という荒唐無稽な資料は、本来民俗学や国 文学の領分のもので、古代史や中世史で取り扱われることがあっても、近世史研究には用いられないこ とが通常であるところの常識を破って大胆に取り入れ、内容の真偽を問題にするのではなく、当時の民 衆がなぜそういう伝説を信じるようになったのか、その成立・変容過程を追求して民衆意識の時代的変 遷、特質、そして天皇に対する民衆の価値意識に迫り、近世天皇論への一つのアプローチが試みられて いる。白鳥信仰は、日本武尊が東国蝦夷征討の旅の果てに伊勢の能褒野で死亡し、その霊が白鳥となっ て天空高く舞い上がり全国各地に飛来したというものから始まると一般に言われている。しかし、本来 は素朴な動物信仰や動物観に基づくものと考えられ、それがなぜヤマトタケルに結びつけられるように なったのか、その作為の追求が本書の主題である。白石川流域に濃密に展開する多くの白鳥神社のうち 、特に蔵王町の刈田嶺神社、大河原の大高山神社、村田の白鳥神社の縁起成立過程に的を絞り、伝説流 布の役割を果たした奥浄瑠璃も含め、安倍則任伝説から用明天皇(聖徳太子の父)伝説、真野長者伝説 、そして日本武尊伝説に至る過程を精密に後付けて行く過程は感動的である。最近、児童虐待の時代に ふさわしくないから変えてしまえと言われた「児捨川」は、この伝説に密接に関わっており、改名騒ぎ はいかに短絡的で浅はかな考えであるか本書を読めば明らかである。

さて、丹野家の「白鳥神社」(写真1)の「祝詞」の資料的価値、歴史的意義などについ て知るため、昨年11月のある日現物を携えて東北アジア研究センターの平川教授を訪問し、現物を見 て貰った。コピーでは微妙なところの解読が困難だからである。白鳥神社が正一位の神号を名乗るよう になったのは享保年間以降であり、文章上の濁点、かなの送り方などから、作成年代は18世紀後期か ら19世紀、場合によっては明治にずれ込むかも知れないとのことであった。後日、作成者に関し不明 であった部分「藤原是院□□太夫」の□□の部分(写真2)は「江録」と読めるという連絡が あった。「江録」は「光禄」の当て字で、「光禄太夫」は唐の官位名で日本では「従二位」に相当、それ故、建久3年で従二位であった藤原氏を探し出せば何か分かるかも知れないということで、また県立図書館に行って色々調べるうち、「国史大系」第五三巻「公卿補任」第一篇(吉川弘文館、1964年)の建久三年の項に従二位に相当する人物は2人いることが分かった。1人は「権中納言・泰通」、もう1人は「参議兼因幡守・雅長」である。「鎌倉・室町人名事典」(新人物往来社、1985年)と「講談社日本人名大辞典」(2001年)に記載があり、両者から引用すると、「藤原泰通」(1147ー1210)平安後期ー鎌倉時代の公卿、久安3年生まれ、参議正四位下藤原為通の子、母は入道大納言正二位源師頼の娘、入道前大納言正二位藤原成通の養子、保元元年(1156)従五位下、侍従・左中将・蔵人頭を経て寿永2年(1183)参議正四位下となり、文治2年(1186)権中納言、建久6年(1195)中納言、同8年正二位に叙せられ、正治元年(1199)権大納言に任ぜられるが、建仁2年(1202)辞退、按察使となる、承元2年(1208)6月20日出家、同4年9月30日死去、64歳。「藤原雅長」(1145ー96)平安後期ー鎌倉時代の公卿、久安元年生まれ、前中納言正三位藤原雅教の子、母は美作守藤原顕能の娘、久安4年(1148)正月叙爵、保元2年(1157)2月昇殿を許され同年12月民部権大輔、平治元年(1159)駿河守を兼ね、左中将を経て、治承3年(1179)正月非参議従三位、元暦2年(1184)参議に任ぜられ、文治5年(1189)従二位に叙せられる、建久7年7月26日死去、52歳。これらの説明からは、両者が東北地方や神社縁起に関係するかどうかは不明であるが、泰通の方が按察使になっていて出家しているので、こちらの方が可能性はあるように思われた。

ところで、江戸時代の神社縁起成立には京都の吉田家やその吉田神道の継承者である吉川家が深く関 わっている。名取の笠島道祖神社縁起にも吉田家の卜部朝臣兼敬、兼雄らが関わり、享保17年に正一 位に昇格している(仙台叢書第五巻、佐久間洞巌著「奥州名取郡笠島道祖神記」)。このうち「卜部兼 敬」が「光禄大夫」の肩書きを有している。こちらの方が「神社縁起」や「祝詞」制作に直接関係して いるので、卜部家の誰かが藤原氏を称していて、祝詞上で藤原と署名しているという可能性はないであ ろうか。

「宮城県姓氏家系大辞典」の「丹野」の項に、留守氏の家臣に関連した丹野氏が「青葉区川内三十人 町の白鳥大明神の祭事を司っていた(封内風土記)という記事があった。後日、平川教授からは、「伊 達治家記録」第五巻654ページ、万治三年(1660)の項に、「此年、公(三代藩主綱宗)ノ御代 、丹野善右衛門重次知行、新田切添越目三百三十文ノ地ヲ、宮城郡国分荘白鳥明神ノ社領二附下サレタ キ旨願ヒ奉リ、願ノ如ク仰付ラルト云々」という記事があると連絡があった。これで白鳥神社と関係す る仙台藩内の丹野家が少なくとも3軒あったことになる。なぜ丹野家と「白鳥明神」との関係が濃密な のであろうか。但し、「祝詞」の受領者名は「只野森」となっている。この人物が誰なのかも問題であ る。仙台藩になってから「只野」を「丹野」に改姓したらしい。丹野家の菩提寺である飯野坂・明観寺 に訊くと、古いものはみんな焼失して過去帳はないという。戸籍を遡ってたどれる一番古い年代は文政 元年(1818)で、この年戸主の清太が生まれている。この清太は前戸主与七郎の養子で、名取郡日 辺の熊坂清作の二男である。邸内に宝暦二(1752)年紀の「南無阿弥陀仏」碑と文化七(1810 )年紀の「馬頭観世音」碑(写真3)があって、この宝暦2年が物的資料に残る一番古い年代 となる。「祝詞」の解明にはもっと古い古文書なり、石碑なりの発見が必要である。

この地区の歴史に詳しい名取市閖上在住の郷土史家氏家重雄氏によると、高速道路(仙台東部道路) の工事の際、かなり大きな堀や土手跡が見つかっていて、以前から土器も多数出ていたということから 、「舘の家」(国の重要文化財に指定されている洞口家)のある大曲地区をも含めた一帯に、多賀城や 長町・郡山遺跡以前の古代の政庁があった可能性があるという。もしそれが本当であれば、歴史の書き 換えが必要なほどの重要性を帯びてくる。いずれの日にかこの地域の発掘事業が計画されることを夢見 ている今日この頃である。

写真1:白鳥明神
写真1:白鳥明神
写真2:「江録太夫」
写真2:「江録太夫」
写真3:馬頭観音碑、南無阿弥陀仏碑
写真3:馬頭観音碑、南無阿弥陀仏碑

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